台湾・彰化暮らし 2017

2017年4月〜2018年3月まで台湾・彰化暮らし。その後も何度か訪問。台湾生活記録です。

李登輝さん( ㄌㄧˇ ㄉㄥ ㄏㄨㄟ )について。

鎮静化していたコロナウイルスですが、台湾国内で急速に広まっていますね。(5月28日現在)

それに伴い、ワクチン、中国との関係、などなど心配ごとも増えてしまいます。

 

最近、元台湾総統であり、現総統の師匠のような存在である、李登輝さんの本を読んでいます。亡くなったときに、様々なニュースで彼のことを初めて知りました。台湾に住んでいたのに知らなくて反省しきり。

それでしばらく忘れていたのですが、図書館で偶然、台湾大地震の時の彼の日記『台湾大地震救災日記』を見つけて読んだことから、彼への興味が再燃しました。

台湾人の誰もが知っているこの地震。本書を読んだことで、震災後すぐに当時はまだ衆議院議員だった小池百合子(現・東京都知事)が訪問していたということを知りました。さらに、彼女が神戸出身であることもこの本で知りました。

 

それから、ご本人による本はそれからも数冊、出版されていますが、あえて、日本人が書いた本を手に取りました。『李登輝 いま本当に伝えたいこと』です。

 こちらは、8年間、秘書を務めた日本人の早川友久さんが書いたものです。

客観的に、かついちばん近くで李登輝氏をみてきた人の言葉なので、説得力があります。一言で言うと「公に生きた人」だと思います。何事も長い目で見て、台湾のために何が最善なのかを考え、そして適切な時間で判断し、実行してきた人なんだと感じました。

わたしが彼に惹かれたのにはもう一つ理由があります。

それは、わたしの祖父と同時期に生きた人だと言うこと。

李登輝氏は大正12年生まれですが、わたしの祖父は大正11年生まれ。

李登輝氏は陸軍士官学校に入り、わたしの祖父は海軍士官学校

それから、戦後は大学に進んで、博士号を取ったところも、

アメリカの大学に進んだところも似ています。

そして、2020年8月に李登輝氏は97歳で永眠されました。

対して祖父は96歳で永眠しました。

 

このように、経歴を追えば追うほど祖父と似ている部分が見つかり、ある意味、彼の半生を知ることは、祖父が生きた時代を知ることでもあるのだという気持ちになりました。おそらく、同世代で祖父が戦時中または戦後に士官学校や台湾と関わりを持った人は大勢いると思います。一人ひとりに人生があって、それがどこかで重なっています。

私は祖父にもっと生きていてほしかったと思っていますが、その一方で、未曾有のウイルス蔓延の社会を迎えた今、それを知る前にあの世に行くことができたのは幸せだったのかもしれないとも感じています。

李登輝元総統は、まさしくパンデミックの最中の真夏に亡くなられたわけですが、彼は晩年どう思っていたのでしょうか。叶うことなら話してみたかったと思います。そして、その一本筋通った生き方は、どこか私の祖父とも通じるところがあるので、おそらく重ねてみてしまうでしょう。

戦時を生き抜いた方々は本当に強い。心身ともに鍛えられたから、少しのことではへこたれない。今の時代では同じように強い人はつくれないと思います。

 

 

本書から、気になった箇所を少し抜粋します。

注)ページの後のサブタイトルは、私が特に印象に残った言葉をアレンジして作ったものです。本書そのままのタイトルを抜粋しているわけではありません。目次をみていただければ明らかです。

 

(1)51ページから:日本にデモ隊技術を学ぶ

1987年に戒厳令が解除されたあと、台湾社会にやや急進的な民主化の波が押し寄せた。デモがあちこちで起き、警官隊との衝突が頻発するようになったと言う状況で、彼が何をしたか。当時内政部長だった許水徳に極秘訪日を命じ、60年代に日本が安保闘争などで培ったデモ警備経験と技術を導入できるよう計ったのです。

許水徳氏は、日本統治時代の1931(昭和6)年生まれ。東京教育大学(現筑波大学)大学院で学んだ経験もあったとのこと。李登輝氏と同じく日本語が堪能であったからこその抜擢でした。

 

(2)68ページから:実践躬行(じっせんきゅうこう)

ここでは、彼の信念に基づいて、1999年9月に台湾を襲った大地震後のエピソードが取り上げられています。台中市内の日本人学校が大きな被害を受けたため、李登輝氏は校長に「わかりました」と一言だけ答えたそうです。

私が生まれ育った時代、『わかりました』といったら、『必ずやります』という意味なんだ。『必ず実践します』と言うことなんだ。でも、今の日本人はわからないんだな。

と苦笑いしつつも、早急に日本人学校の移転先を提供したとのことです。実践と行動力がなければ、教養があっても意味を為さないと言うことを体現していた人だとわかります。

 

(3)84ページ:「公」と「私」の区別

本書の中で採算言われていることですが、李登輝氏は「公」>「私」の人。

うちは自由なんだ。何を勉強しろ、どこの学校にいけと強制したことは一度もない。

李登輝氏はこのように言っていますが、私(ブログ筆者)の祖父からも父からも同じような教育を受けたため、とて親近感をもちます。あれこれ言われず、意見を求めればアドバイスしてくれますが、質問しなければとくに何も言われなかったように記憶しています。本当に良かったです。当時は思春期ですから、いろいろ思うところはありましたが、今は好きなだけ本が読めて、健康で、人らしい生活を送ることができているため、両親には感謝しています。

 

(4)107ページ:情報源を一本化するな。

これはいつ、どこの社会にいても通用する方針だと思います。情報を常に複数の情報源から得ること。新型コロナウイルスの蔓延、さらには変異ウイルス、ワクチン…様々な情報が錯綜する中で、できるだけ正しい情報源をみる、いくつかの視点を変えたニュースを見る(医者の視点、経済の視点、公衆衛生の視点…)、など自分自身で指針を決めて、情報の取捨選択をする必要があります。

 

(5)120ページ:資金を適切に公のために。そして防災のために。

…国民党はとても裕福な政党であった。なぜなら、戦後(昭和20年)、統治時代が終わり、日本人が引き上げる際に、ほんのわずかな身の回り品と、雀の涙ほどの現金以外持ち出すことを禁ずる、という厳しい条件をつけたからである。結果、賠償請求などはしなかったものの、懐は十分に潤った。むしろ、賠償金を請求すれば、日本人から代わりに台湾に残した資産を返して欲しいと言い出されかねないからだったらしい…。

ということで、国民党は莫大な資産を持っていたわけですが、李登輝氏はそれを様々な場面で効果的に利用したそうです。

一例には、前にも述べた「921大地震」(1999年9月29日発生)の時です。政府を通していたのでは、届くのに時間がかかってしまう、山奥の村々に現金を手渡したそうです。国民党の金庫にあったお金を使用したと記されています。

さらに、日本財団の当時の会長、曽野綾子さんが日本円にして3億円あまりの義援金を届けに台湾に来たときに、李登輝氏はそれを災害救助のためのNGO設立に使いたいと申し出たそうです。いざというときに災害救助に当たる人材育成のために使われ、今でも自然災害時にはこのNGOのメンバーが活躍しているそうです。

 NGOのなまえが知りたくて、機会があればインターンをしてみたいのですが…探しても見つけられませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。I'd like to know this NGO's name in Taiwan. In 1992 it was established by donations from the Japan Foundation. 由日本財團捐款成立於1992年。這個非政府組織的名字是什麼?

(6)131ページ:台湾語に残る「日本精神」

22歳まで日本人だったという李登輝氏を形作ったのは「正直や清廉潔白、法を守り、勤勉である」ことが美徳とされた日本教育だと言う。

 

(7)136ページ;前例のない事態には、前例のない対応を

 ここでは、大震災後の遺体処理について述べられています。

あの3月10日の東京大空襲だ。翌日私たちは遺体の収容や、焼けた家屋の片付けに追われた。軍というのは戦争するだけでなく、戦場の『整理』も重要な仕事だと悟ったんだ。あの経験があったから、921震災のあとの対応でも、何をしなければならないか、ということを即座に理解したんだ。

続けて141ページから引用します。

日本も台湾も、地震や台風など自然災害の多い国柄だ。ひとたび災害が起きれば、リーダーの地位にある者は「前例がないから」という理由で決断を回避することはできない。前例のない事態には、恐れることなく前例のない対応をすることが、リーダーに課せられた指名なのである。

私(ブログ筆者)も日頃、防災教育の重要性を考えているため、その通りだとうなずいた一節です。

 

(8)147ページ:指導者には信念が必要だ。

物事を農業経済から見るか、政治家として見るか…。そもそも、李登輝氏が国民党に入ったのは、力のある政党に入ることにより、重要な会議に出席させてもらう機会を得たり、発言権を得たりするためでした。そうしなければ、台湾の農民のために何もできないと。農業経済で博士号をとった李登輝氏。彼は「台湾に民主主義と自由をもたらす」という信念をもって指導者となりました。この本の著者、早川氏は以下のように述べています。

指導者として確固たる信念を持った李登輝氏が総統の座についたことは、台湾の歴史上最大の僥倖(ぎょうこう)だったといえるだろう。

 (9)150ページ「経験と見識を見極めよ」

滝材適所、その分野のプロを適切なポストに配置した人事…このパンデミックの中、蔡英文相当が、公衆衛生や防疫、ITなおの「その道のプロ」を配置したのは、李登輝現役時代を踏襲しているように思える、と筆者は述べている。

李登輝政権下、蔡英文氏は、どこで何をしていたのだろうか?

1990年代に入り、台湾はWTOの前身であるGATT(関税貿易一般協定)への加盟を目指していた。この当時、蔡英文さんはイギリス留学から戻って、大学で教鞭をとっていた頃だそうだ。当時の彼女のテーマは「不公平貿易措置とセーフガード」。当時の台湾には、「国際経済法」について理解していた人材がほとんどいなかったたため、李登輝は彼女を採用したそうだ。

つまり「その道のプロ」に「特定の分野」は任せてしまう!という采配。

日本も学んでほしいところ・・・・・。

 

(10)162ページ:訪日したい気持ちを抑えて、国家のリーダーとしての判断を下す。

蛇足だが・・・のところが「ほおっ」と思ったので引用します。

蛇足だが、この2013年のときは日本政府によるビザ発給は問題となっていない。なぜなら、台湾人観光客の査証免除(ノービザ)が2005年に恒久化されたからだ。それは、表向き、愛知万博が契機とされていたが、実際は李登輝が訪日するたびにビザ発給で日中台関係が揺れることを防ぐために講じられたものと、当時外務省中国課の要職にあった方からうかがっている。

 

(11)164ページ:指導者は「誠実自然」であれ。

これは座右の銘だそうです。彼が作った造語。

「誠実」とは日本人が持つ勤勉さや正直さ、真面目さを表している。「自然」については、李登輝は著者のなかで「いかにして自然と溶け込むかという問題意識」 

これに対して、筆者である秘書の早川さんは

李登輝自身が経験してきた人生に重ね「えらぶることなく、いかに自然体のまま人生を肯定していくか」だと解釈している

そうである。

台湾で発売されたという書籍『蔣經國日記揭密』(蔣經國(しょうけいこく)日記の秘密解明)が一時期話題になったそうだと書かれていて、その中には、なぜ数多くの候補から李登輝を指名したのかの謎を解くヒントが書かれていたからそうなのだ。

筆者によると

李登輝の日本人的性格を買ってくれたから

・お世辞やおべっかを言わず、ただ国民のために全力で仕事をする誠実さを評価したから

とある。本書によると、対抗馬であったりんようこう(林洋港)について「才能はあるが品格面がおとる。以後注意が必要」と書かれているそうだ。

繰り返すが「いかに自然体のまま人生を肯定していくか」という姿勢がとても大事だと何度も筆者が書いている。仕事においても、何事に対しても自然体でうまくいけば幸せな気持ちになれるだろうと思う。いい言葉だ。

 

 ※ 蔣 経国(しょう けいこく、中国語: 蔣經國,注音: ㄐㄧㄤˇ ㄐㄧㄥ ㄍㄨㄛˊ/拼音: jiǎng jing guó、1910年4月27日 - 1988年1月13日)

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、内容と全く関係ないのですが、メロディと歌詞が素敵で、愛する人への最後の別れの歌だと思ったCrowd Lu クラウド・ルーの「幾分之幾」を添付し、記事を終わりにしようと思います。

 


www.youtube.com

 

歌詞(中文)

幾分之幾
詞曲:盧廣仲


記得那天 太陽壓著平原
風慢慢吹 沒有人掉眼淚
一切好美 好到我可以不用說話

金色的側臉 踩著全白球鞋
風繼續吹 世界繼續作業
那麼確定 我知道那就是你

那一天你走進了我的生命
謝謝你 成為了我的幾分之幾
閉上眼睛也能看見你
晴朗的南方

就算犯錯 你拿歲月等我
就算停留 還有你和夜空
我算什麼讓你無條件的為我

那一天你走進了我的生命
謝謝你 成為了我的幾分之幾
如果我又更完整一點
也是因為你

某一天你離開了我的生命
謝謝你曾經是我的幾分之幾
感覺你貼著我胸口呼吸
在那一個回不去的天明

我的 幾分之幾
你終於還是離開我的生命
留下每天都在變老的我
請記得我曾經 愛過

--------

 

こちらの歌詞の最後の部分。

google 翻訳を利用してちょっと意味を調べてみたのですが、

ある日あなたは私の人生を去った
私のほんの一部でいてくれてありがとう
あなたが私の胸に息を吹きかけるのを感じてください
戻れないあの日

私の一部
あなたはついに私の人生を去りました
私を毎日年をとらせてください
私はかつて愛していたことを覚えておいてください

 ネイティブではないので完全に理解できたわけではないのですが…

「那一天」 は「いつの日か」の意味ですが、初めて聞いた時「泣いて」に聞こえました。台湾ドラマでもよく耳にしますが「那一天」って切ない響きがあります。単なる外国人の感覚ですが、これを聞いたときに「泣いて」に音が似ているからかな。と思い当たりました。

 

私はおじいちゃん子だったこともあり、この世からいなくなってしまったことは、悲しくて、悲しくて、今まで話したことがクッキーのようにほろほろくずれて、そして風に吹き飛ばされるように少しずつ忘れてしまうことが悲しくて。今では思い出せないことも多いのですが、たたずまいやふるまいを自然に真似してしまうような時もあります。

書きはじめた時はただただ李登輝氏の功績について書こうと思っていたのですが、彼の笑顔がなんだか祖父に似ているんですよね。だから、尊敬していた大好きだった祖父を思い出して、つい感傷的になってしまいました。

同じ時代を生きた李登輝氏と祖父。

2人のことについて、今は直接話す機会はもう訪れませんが、史実を遡って、彼らから学んでいきたいと思います。

長い記事になってしまいましたが、最後までお読みくださり、ありがとうございます。